被爆から80年、日本原水爆被害者団体協議会 ノーベル平和賞受賞の意味を考える

1945年8月9日午前11時2分、プルトニウムを原料とする原子爆弾が長崎市に投下されました。3000度の熱線、280mの熱風が一瞬にして街を破壊し、7万人の命を奪い、一命をとりとめた多くの被爆者は、いまもなお心身の被害に苦しんでいます。

 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館と、長崎原爆資料館の見学に行ってきました。
祈念館の最初の部屋には、被爆体験記が壁一面に並んでいます。市内、県外からの体験記も収録され、現在も体験記や追悼記は貴重な資料として収集が続けられています。追悼空間には、19万人の名簿と身元不明者のための白紙の一冊が、塔のような棚に納められています。資料館では、変形したガラスや石、瓦、浦上天主堂の側壁の再現造型、そして非情にも記録として現存している写真や映像が見られます。いまも続いているウクライナやパレスチナの状況と重なって、「戦争」が過去の遺産とはなっていないことに悔しさを覚えます。

今年2月に閣議決定された第7次エネルギー基本計画は、原子力発電について「必要な規模を持続的に活用していく」とするなど、原発回帰の方針を明確に打ち出しています。第6次計画までは、明記されていた「可能な限り原発依存度を低減する」の文言が消えました。福島第一原発の廃炉、六ケ所再処理工場・MOX燃料工場の技術完成、核廃棄物の最終処理問題もままならない中、原発を持続可能な主要電源として位置付けるのは、非現実的なのは明らか。原発はコストが高く、経済合理性にも欠けることは、もはや国際的な定説です。核分裂を利用したエネルギーに依存することは、新たな「ヒバクシャ」を出し続けることになります。

町田市は1983年2月1日に非核平和都市宣言をしており、市庁舎西側に宣言碑もあります。核兵器、核実験、原子力発電、いかなる核利用も平和を脅かすもの、という認識での「非核」であるべきだと、改めて感じています。